ハトコのたわ言

趣味に生きる隠居のたわ言集です

2022/07/08 映画『エルヴィス』を観て

Blog休止中に観た映画についての感想シリーズ第2弾。

以下ネタバレあります。

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立川の「シネマシティ」に「エルヴィス」を観に行く。

前評価はそこそこ良かったが、

感想その①『制作者側の表現意欲というか、「センス出してやろう」「オレっぽくやってやろう」とかいう意思が空回り気味で、ちょっとウザイ』

画像処理とか音楽のエフェクトとか凝ってはいるんだけど、正直、過剰で鼻につく。ちゃんと1曲聴かせてくれない場合が多すぎる。なので、

感想その②『結局、エルヴィスってどんな人だったの?そして何を目指していたの?というのが良く分からず、鑑賞後感がどんよりする』

もっとシンプルに描けば良いのに、と素直に思う。ともかくエルヴィスがどういうアーティストでなにを目指していたの?とかよく分からない。

感想その③トム・ハンクス演じるところの悪徳マネージャー「大佐」の物語の描き方が中途半端』

天才モーツアルトと凡才サリエリ(モーツアルトが優れている事は分かる、という意味では才能あるが、到底その域にはたどり着けない、と言う意味では凡人)の対比で描かれたアマデウスは、サリエリ側に観客が着いて観る(感情移入して観る)ことが一応可能だった。

が、この「エルヴィス」は、大佐についていくら描いたって、彼側から着いて観る=彼に感情移入して観ることは不可能。「悪人」っぷりが半端でなく、観ていて不愉快になってくる。大佐は本質的なビジネスの才すらなく、それでいてエルヴィスと自分が横並びであるみたいな自意識過剰さ、不遜さがあると描かれている。

この映画上、存在感が非常にある。が、それは過剰すぎる。エルヴィスの音楽的な本質を描くのに不可避な存在であったのか、非常に疑問である。結局、壮大なスケールで描かれているけど、つまるところ長いゴシップ記事を読まされている感じになってしまう。

結局の所、時代が流れた後、生き残るのはプレスリーの音楽でありパフォーマンスである。大佐がどういう人だったかとかは関係ない。

それが本質であり、ちゃんと描いて再現して欲しいところである。そしてそこがキチンと描かれていないのがこの映画に対する最大の不満である。

Queen(とフレディー・マーキュリー)の映画ボヘミアン・ラプソディが非常に良かったのは、Queenの音楽が現在のデジタル技術により、まるで本当のLiveを観ているかのような音質でよみがえった所にあると私は思っているんだけど、この映画は、最初に書いたように、制作者側の過剰な表現意欲からか、ちゃんと曲をフルで聴かせてくれない。ガッカリである。

ゴシップ部分は、ほんとにもうドウデモ良いのである。

逆にカレのファッションについては、二世代くらい下の我々(1962年生まれの私たち)にとってみれば、(私の多感な頃には既に)ダサさのアイコンであり、パロディの対象だったわけだから、その元の形を比較的きちっと描かれていたのは良かった(ファッションは詳しくないのできちっと描いたように見えたのかもしれないが)。

あと、この映画、無駄に長い。映画館でなければ全て観きれない映画である(悪い意味で)。

悪口に終始することになったが、良いところも少なく、まあ会員割引の料金1000円分楽しめたかどうか微妙なライン。もうちょっと何とかなって欲しかった。プレスリーの音楽を聴くことは今後も大いにいありえるが、この映画を観直すことはないだろう。